5月病な日々

脚色と虚構

愛について

そもそも読んでいる人がいるかどうかもわからないが、いつか残るところに書いておかなきゃいけないとおもっていた。この記事は相当長くつまらない内容になるだろうし、人によっては気分を害する表現があるかもしれないので、よっぽど暇で心に余裕がある時にでも読んで欲しい。というか誰も読まなくても構わない。これは私の備忘録なので。

 

人間大なり小なり秘密があるとおもう。

当然私にもある。小学校の頃、落し物コーナーにあったハンカチが自分のものだと言い出せずに、みんなと一緒になって落とし主を探したことがあった。そんな小さなことから、墓場まで持っていこうと決めた重大なことまで、豊富なラインナップを取り揃えている。

その中でも、私という人間を構成する要素として非常に大きなウエイトを占める秘密がある。(しかし秘密というほど誰も知らない内容ではないのだけれど、Aという事象に対する私のBというおもいや考えがあった時、Aを知る人はいてもBを知る人はいないので、Aも含めたBについて、今回秘密と呼ばせていただいている)

遡ること9年前、中学1年生の3月。まだ寒い学校からの帰り道、私は汗をかきながら自転車をこいでいた。

当時の自分には、これが愛であると断言できる存在があった。

それは「はな」という名前のメスの犬で、犬種はシーズー。血統書付きで、それを抜きにしても愛らしい見た目の賢い子だった。彼女は子犬の頃から我が家にいたのではなく、事情によって飼うことが困難になった知人から、父が譲り受けた犬だった。私が小学校5年の頃、突然やってきた彼女の第一印象は「目がでかいし名前が古臭い」。来たばかりの頃の彼女は、知らない場所で知らない人間に囲まれ、慕っていた飼い主が突如いなくなり、常にビクビク怯えて机の下に隠れていた。数日間何も口にしていなかったし、机の下にいない時は玄関先にじっと座り、結局最後まで迎えに来なかった元飼い主のことを待っていた。

私は犬についての本を読み漁った。どうすれば餌を食べてくれるのか、どうすれば寝床で寝てくれるのか、どうすれば仲良くなれるのか。努力の甲斐あって、彼女は徐々に我が家に慣れていった。全部覚えている。初めて餌を食べてくれた時、初めて散歩に行った時、初めて名前を呼んでこちらを向いてくれた時、初めて私の体にお尻をつけて座ってくれた時、そして、苦手だと知っていたのにきちんと対策をせず雷に怯えて行方不明になってしまった時。

彼女は雷が大の苦手だった。私は平気だったので、夏、小学校が終わる頃決まって崩れる天気を恨めしくおもいながら、けれど少し嬉しくもおもいながら、走って学校から帰って彼女を抱きしめていた。彼女は本当に可哀想なくらいガタガタ震えて、緊張のあまりガチガチに体を強張らせてされるがままになっていた。なるべく音が聞こえないように、稲光が見えないように、机の下に潜って彼女の耳を抑えていた。

わかっていたのに、その日夏休みのプールに夢中になっていた私は、天気が完全に崩れるまで家に帰らなかったのである。

彼女はパニックになり失踪した。悪い偶然が重なって、たまたま私が早く帰らなかったその日、他の家族も誰一人その場におらず、田舎の農家にありがちな無用心さをもって開かれたドアによって、平静さを失った彼女は行方をくらました。ドアを開け放しにしていた犯人は祖父なのか祖母なのか、私にはわからない。家に帰った時、呼んでも探してもどこにも彼女の姿はなく、ただ祖母が「はなが逃げていったが追いつけなかった」と言った。私は妹と土砂降りの雨の中、泣きながら彼女の名前を叫んで付近を捜したが、全身ビショビショになって声が完全に枯れても彼女は見つからなかった。これも秘密だが、この件で私は祖母を少し恨んでいる。

結果として、数日後保健所にはなに似た犬がいるという報せがあり、妹と叔母とで見に行ったところ、泥だらけでぼろぼろの変わり果てた姿だったが、彼女は無事我が家に戻ってくることができた。それ以来、私は雷が大の苦手である。

彼女には持病があった。幼い私にその難しい病名はわからなかったが、体内に石ができてしまうという病気である。定期的に通院し、薬をもらい、家でも食事や運動には家族ぐるみで気をつけていた。犬の平均寿命は当時10歳前後、シーズーは長ければ16年くらい生きる個体もいるという。彼女は4歳で我が家に来たため、もしかしたら私が大人になって家を出る頃まで一緒に暮らせるんじゃないかなんて指折り数えて考えたものである。けれど、彼女を手放した元飼い主と彼女が暮らした年数を、彼女が我が家で越えることはなかった。

彼女は夜中に吐くことが増え、今まで食べていた餌を極端に食べなくなり、これはおかしいとおもい動物病院へ連れて行った。彼女の体内には石ができていた。私たちは、なるべくしたくなかったが医師の強い勧めにより彼女の子宮を摘出した。子供を産めなくなった彼女のお腹には醜い手術痕が残った。その数ヶ月後、彼女はまた体調を崩した。動物病院に連れて行くと、入院が必要だと言う。彼女は酷く鳴いていたが、彼女自身のためだと心を鬼にして、入院させた。それが彼女の最期の姿となった。真夜中の病院の冷たく狭いケージの中、たった一人で彼女は死んだ。好物だったジャーキーもクッキーも、最期の数ヶ月は体に悪いと一切食べさせてあげられなかった。

私は全力で自転車をこいで帰宅した。父からのメールで、彼女が死んだことを知ったからである。

自転車をこぎながらすでに泣いていた。頭が追いつかなかった。そんなまさか、とおもっていた。確かに彼女は最近すごく体調も悪かったし、でも、と。自転車を文字通り庭に乗り捨て、転びそうになりながら家に上がった私の耳に、祖母らしき声でおかえり、と聞こえた。居間には家族が全員揃っており、その中心には彼女がいた。汗だくだったはずの体が、一気に体温を失い冷たくなっていくのがわかった。

大事なものを失うことそれ自体が、本当に大事にしていなかったことの証明のような気がする。

彼女の廊下を歩く足音が好きだった。肉球や耳の裏や、尻尾のにおいが好きだった。ふわふわの毛や、大きな目、その鳴き声が好きだった。人の気持ちがわかっているような、話しかけたら返事をしてくれているような、その聡さが愛しかった。福島にも行った、ドッグランにも行った、いろんな公園に行った、春は花の匂いを嗅ぎ、夏はアスファルトが冷める夜を歩き、秋はとんぼを追いかけ、冬は雪の上に足跡を残した。その全てを、忘れることを恐れた。

私は9年もの間、すでに彼女を知っていた人以外の一切に彼女のことを話さなかった。誰かに喋ることで、彼女の存在が色褪せ、都合のいい思い出となり、遠い過去のこととして私の中から消えていくことが許せなかった。長考の末、彼女が死んだのは私のせいでもあると、おもい至った。彼女の死は私や私たち家族の罪であり罰である。そうやって自分や家族を人知れず責めることでしか自分を保つことができなかった。彼女の最期を孤独に過ごさせた無力な医師から、しつけと称してトイレに閉じ込めた妹、食事制限をしていたのにこっそり人間の食事を与えていた祖父、散歩中噛んできた近所の大型犬、雷雨の中見捨てた祖母、最初から最後まで責任を持たず二度と会いに来ることもなかった元飼い主に至るまで、彼女に関わった者全員一人残らず地獄に堕ちろと願った。そしてもちろんそれら全員を知っていながら何もしなかった自分に、強い憤りを感じた。私にできることは彼女を陳腐な思い出にすることなく自らの罪を噛み締め彼女のいないこの世界で永遠に彼女に許してもらうことなく無様に生き続けること、そうであると信じ、毎晩泣きながらネットの海に懺悔を書き綴り、ありとあらゆる手段で殺されるという悪夢を見ながら、楽しいけれどなにもかも今すぐ終わっても別にいいという日々を過ごしてきた。我が家から彼女のご飯入れやトイレが消えた。散歩バッグやおもちゃなどもいつのまにかなくなった。家族間で彼女の話題が出なくなり、周囲から彼女の生きた証が減るにつれ、絶対に私だけは忘れないという決意は固いものとなった。人間は意地汚く、計算高く、自己中心的で、他人を手放しで肯定することも、他人の痛みを真に実感することもできない。それは決して悪いことではないと今なら理解できるが、当時の自分は追い詰められていて、自分や家族どころか人間全てが彼女を殺したとまで考え憎んでいた。

彼女は愛の象徴である。愛は何も喋らない。私が愛を裏切りこそすれ、愛が私を裏切ることはない。まだあたたかい彼女の死体に触れた時、13歳の私はそう痛感した。

それから22歳の今に至るまで、その考えは変わっていない。

高校2年まで続いた悪夢も、今はもう見なくなった。たまに彼女の夢を見て泣きながら起きることはあるが、時は全てをさらっていくのだろう、あんなに反芻した彼女の足音もにおいも、もう自信を持って思い出すことはできない。私だけが成長してしまって、今では彼女がどれくらいの大きさだったのかもわからない始末だ。

それでも、私はこれから先、生涯他人を愛すことは不可能だろう。何故なら私には感情があり、それを伝える数多の手段がある。それは他人も同様で、だからこそ人間の営みは成立しているんだが、同時に「言葉がある」ということ、その傲慢さが私には愛とはおもえないのである。私たちには言葉があるから、簡単に愛を囁けるし簡単に人を傷つけることができる。そこに人生はかかっていない。ほんの軽い気持ちで、なんの覚悟も真剣さもなく、その場のノリで、自分に陶酔して、人は人に言葉をかける。

私がそのいい例である。

だから私は他人を信じるということができない。期待してしまうことがあってもどうせ裏切られる。中でも最も信用ならないのが自分自身だ。最も嫌いなのも。でも殺すこともできない。私ははなが大好きで大好きで愛しているのに、所詮これも陳腐な言葉でしかない。はなは死んだ。もう世界中のどこを探しても二度と会えることはない。謝ることも、好きだと言うことも、抱きしめることも、死んでしまっては。今でもこんなに涙が出るのに満足に思い出すこともできない。それが悲しい。あんなに忘れまいと何度も何度も反芻した何もかもがどんどんどんどん消えていく、消えていくことすらわからないようになる、恐ろしい、私はどうすればいい、あの時、私の人生も時が止まればよかった。

 

以上が、私という人間の根底にある秘密である。それを何故今、ここに吐露するのか。私は私を許したい。私が私を憎むことでしか守れなかった自分を大切にしたい。そうおもったからである。

私は彼氏が好きである。友達も、家族も好きである。将来は犬も飼いたいとおもっている。愛しているのはきっとこの先も彼女だけだが、私や私が大切におもう全ての存在を、否定するようなことはしないでいたい。彼女は私を恨んでなんかいないと、本当はわかっていた。彼女はそんな子ではないことは、私自身よく知っていることだった。私を許せなかったのは彼女ではない、他でもない私自身だった。

彼女の代わりに私が死ねばどれだけよかったか。毎日毎日ああすればよかった、こうすればよかったと後悔しては、どうにもならない現状に虚しさが募った。もうあんなおもいはしたくはない。後悔のない人生などは不可能である。けれど、後悔の少ない人生にするための努力はできる。いつなにが起こるかは誰にもわからないのだ。私の大切な人が、明日死ぬかもしれない、既に不治の病に冒されているかもしれない、大きな地震が起こるかもしれない、通り魔に刺されるかもしれない。次に会う時、生きて元気な姿でもう一度笑ってくれる保証はどこにもない。それはとても恐ろしいことであるとおもう。過去は絶対に変えられないからこそ、私は今、最善だと考える選択をする。それが結果的に間違いだったとしても、最善だと信じて行ったこと自体を後悔はしない。全力で生きて、それで死ぬならしょうがないとおもえる。

3月3日のひな祭りの日、はなは7歳という若さで尊い命を失った。9月9日に生まれたはなの生が、美しく幸せなものであったことを願う。

愛情から始まる話

彼は仕事で疲れていた。疲れていたのですぐに寝てしまった。彼女は連絡が来るはずだったのでずっと待っていた。日付を越えても彼からの連絡はなかった。翌朝目覚めた彼は彼女との約束を思い出して急いで連絡した。ごめん、仕事で疲れて寝てしまったんだ。彼女は笑って言った。そうだとおもった。そんなことが何度かあった。あなたって本当うっかりさんね。彼らは笑い合った。

彼は日々仕事に追われていた。彼女からのメッセージもすぐに返せないことが多かった。彼はそれを申し訳なくおもって、彼女に謝った。いつもすぐに返せなくてごめん。彼女は笑って言った。携帯電話を見る暇がないんだもの、しょうがないわ。たしかにしょうがない、と彼もおもった。徐々にメッセージを返す頻度は低くなり、その内容は薄くなった。メッセージをしなくても電話をすればいいことだ。しょうがないとおもったことすらやがて忘れた。もちろん電話の頻度も別段変わることはなかった。

忙しい彼はそれでも合間を縫って彼女に会いに行った。彼は忙しいので予定が確定するのも遅く、前日の夜や当日に彼女に連絡をすることも仕方のないことだった。急な訪問も彼女は笑顔で受け入れ、喜んだ。彼は嬉しくなった。それにもやがて慣れた。彼には最早申し訳なくおもう気持ちは微塵も残ってはいなかった。全ては当たり前で、彼の忙しく平和な日々は過ぎていった。

彼は上司から大きなプロジェクトを任されることになった。その足掛けとして日曜日にプレゼンをせよと命じられた。大事なプレゼンの前日になってから、彼女からのメッセージで日曜日はデートの予定だったことを思い出した。実に2ヶ月ぶりのデートだったが彼は仕事なのでしょうがないと考え、会えなくなったことを彼女に伝えた。彼女は笑って言った。そんな気がしてた。そうして更に言葉は続いた。もう辞めましょう。

突然の言葉に焦った彼は彼女に電話をかけた。彼女はつとめて穏やかな口調で、淡々と喋った。ねぇ、あなたは私に対して、人間として最低限の礼儀すら用いようとしないでしょう。自分で言ったことを遂行し、相手のことを考えて行動する、そんな当たり前のことすら面倒がっているでしょう。そしてそれを改善する気もないでしょう。だからもういいの、終わりにしましょう。

彼は慌てふためいて言葉を並べた。彼女は静かに返す。私は何度もあなたに伝えたけれど、あなたは鈍感になるばかりだった、私の都合や気持ちを考えたことなんてなかった、どんなに甘えても許されるとおもっていた、それは私を対等な人間として扱っていなかったからに他ならないわ。それから彼は、私に連絡をしてきたのだった。

ひどいと小さく呟く彼の愚痴を聞きながらおもう。この深い憎しみの出所はどこなんだろう。彼女は彼を愛していた。愛していたからこそ甘やかしてしまった。彼は彼女に飼い殺されたのだ。毎日毎日甘いお菓子を与えられていたら太るに決まっている。肥満とは怠惰だ。人間が怠惰から抜け出すことは難しい。

最後に教えてくれるだけ彼女は優しいとする者もいるだろう。それでも私は恐ろしかった。彼が真に受けない程度にやんわりと伝え、材料を集め、彼の甘えが一線を越えるのをじっと待っていたようで。そんなことはよっぽど憎んでいなければできない。彼女はたしかに彼を愛していたはずだった。なら、その憎しみの出所はどこだ。

乾燥肌の才能の話

読書は嫌いだ。はじめの5ページがどうしても一緒に捲れてしまう。四苦八苦しているうちに面倒になって、仕方なく捲れた場所から読むのだが、当然内容がわからない。それで読むのを辞めてしまう。私はずっと、君に対してもそんな風にしてきたのかもしれない。

一度言ってみたことがある。ねえ、君のその肌は才能であるとおもうよ。私にはそんな風に一枚一枚ページを捲ることができないし、触れた相手の心地をよくさせることもできない。私のようなかさかさの指ではどんなに丁寧に触れても傷つけてしまう。それに私はとっても雑なんだ。そもそもが丁寧に触れることなんてできないんだよ。

それに対する君の返答はなんだったか、思い出そうとして、君が好んで読んでいた本を手に取る。君は読書が好きなひとだった。眠る前には必ず、枕元のスタンドの灯りを頼りに本を開いていた。私が眩しくないようにこちらに背を向ける君の広い背中を、少し寂しいような、恐ろしいような心地で眺めているうちに、いつのまにか眠りについているのが常だった。

私は君と出会う前の君の一切を知らない。私の中の君を構成する要素は、出会ってからの君だけだ。それまでどこにいて誰と暮らしていたのか、何を見てどう感じ取ってきたのか、その全てを君は喋ることはなかった。かといって私の方も興味もなかったのだった。

君の指はいつも潤っている。握ると暖かく、しっとりとしていて、私はそれが好きだった。自分は生まれついての乾燥肌で、足の先から指先に至るまで、いつも砂漠のようにかさかさしている。読書が好きで誰にでも優しい君は、自分とは何もかも対照的な存在であると信じていた。

しかし、どうやら私の信仰は間違っていたようだった。枕元のスタンドの傍には、よく使い込まれたハンドクリームがあった。何故今まで気づかなかったのか、不思議におもって、きっとこれも私の雑さなんだろうと苦笑する。君のその指の柔らかさは才能なんかではなく、後天的な、努力によって形作られたものだった。君の人生の冒頭を知ろうともせず、その背景に興味も持たず、数ページ捲れたまま読み進めてしまっていた。私は、君のことを知った気になって、その実何も理解できてはいなかったのだと悟った。

もういなくなってしまった君のハンドクリームをゴミ箱に入れて、あの時君が返してくれた言葉を唐突に思い出した。久しぶりに読書に挑戦してみよう。思うようにページが捲れなくても、ゆっくり時間をかけて読めばいい。

確かに、君という人は大雑把なところがあるかもしれない。でも、君のその指はちゃんと触れられていると実感できる。そのままで居られるということは、尊いことだよ。

信じることを期待する

最近たまに、これだ、とおもうことがある。

かつて報われない恋をしていた頃、私は中学生のままごとのような行為に憧れた。ラインミュージックを揃いの恋愛ソングにするだとか、カップルアプリなるものをインストールするだとか、ペアのネックレスをつけるだとか、ちゅープリを撮ってツイッターに「男絡みいらん卍」と呟くだとか。

彼氏とコインランドリーに行った時、あぁ、これだ、とおもった。私はあまりに報われなさすぎて、自分が本当は何が欲しいのかわからなくなっていたのだと気づいた。私が憧れていたのは、コインランドリーで好きな人と洗濯物が乾くのを待つようなことだった。誰にも逃げも隠れもせず、この人が好きだと言えるような関係になることだった。それを当たり前にできるようになることだった。

私は他人を信用するということが極端に苦手である。対して、諦めることはすごく得意だ。私にとって信用するというのはすごく負担のかかることで、反対に諦めることは拍子抜けするくらい楽だ。昔から嫌になる程度胸がなく、泣き虫で、常に不安でいっぱいの人間だった。自分自身を諦めることで世間の悪意や何か後ろ暗いものから鈍感になった私は、やっと人並みになれた気がした。

決断の早い人は期待することを恐れている、と何かの本で読んだことがある。では、決断することを出来るだけ先延ばしにしがちな自分は、期待しているのだろうか。信用はしていないくせに期待だけしているというのは、酷く自分勝手な姿勢ではないのか。

期待と信頼は姿形はよく似ているが、全くの別物だ。期待は裏切られるものだが、信頼は失うものだ。私は自分が芯からダメなやつだとおもっているから、他人が勝手に何かして、その結果自分に利益があればいいとおもっている。それは期待だ。信頼とは相互作用で生まれ育むものだ。つまるところ、私は自分に対しては期待も信頼もしていないから、誰かに対して自分が片棒を担がなければならない信頼も生まれることはない。

確かに私は期待していたんだろう。今どんなに報われなくても、いつか報われる日が来ると。何度泥水を注がれても、いつか空から飴が降って来ることを期待して、バカみたいに口を開けて上を向いていた。飴なんてちっとも好きではないのに。仮に落ちてきたとして、喉に詰まらせるのがオチだろうに。

いつか、私をいつもハッとさせるこの人のことを信じることはできるのだろうか。自分でも気づかなかった本当に欲していたものをくれるこの人に、私は同じことができるだろうか。

口を閉じて下を向いた時、地面に無数のアリがたかる飴が落ちていたりしなければいいな、とおもう。

夢に生きる女の話

明晰夢というものを見たことがない。夢の中の自分はただの自分であり、自分を取り巻く環境、事象、その全てを現実としてしか認識することはできない。目が覚めてはじめて、夢を見ていたのだと悟る。

夫が死んで随分経った。死因はカタカナと漢字がまぜこぜのとても長くて難しい名前の病。喪主を務め、香典返しをし、保険屋に電話し、市役所で書類を書き。そんな風に忙しくしていてふと気がついたら四十九日も終わり、秋になっていた。思い返すと今日までの記憶は断片的で、悲しむ暇もなかったような気がする。かつての日本の妻たちは、悲しむことが嫌で煩雑な仕事を増やしたのかもしれない。

私は夫を愛していた。顔立ちは整っているとは言えないが、黒目がちな瞳にはどこか愛嬌があった。新卒で入った会社の先輩という何のドラマ性もない出会いも、こたつでみかんを食べながらのプロポーズも、平凡な私にはちょうどよかった。イベントごとで盛り上がることもなければ大きな喧嘩もない、そんな日常を愛していた。

夫が最初に夢に出てきたのは、彼が亡くなる前日だった。夢の中の私たちには2歳の一人娘がおり、私は酷く疲れていて、家は荒れ果てていた。どうせ私が悪いんでしょう、あなたには私の気持ちなんかわからないんだわ、眼前に立ちはだかる夫を散々口汚く罵って、私は泣いた。夫は私を抱きしめた。きみは悪くない、誰も悪くなんかないんだ。床では娘が寝ていた。

目が覚めて、夢でよかったと胸を撫で下ろしたところに、病院から夫が死んだと電話が入ったのだった。やけにリアルでずっしりとした質量と、ひとり取り残されたプールの更衣室のような湿度のある不思議な夢は、虫の知らせのようなものだったのかもしれない。それから、ほとんど毎日夫の夢を見る。

夢占いをはじめとして、古くから人間は夢に大きな意味を見出してきた。この夢が私にとってどんな意味を持つのかはわからない。いつまで経っても夢の中の自分は夢だと自覚することがないままで、まるで私自身違う人生を歩んでいるような気持ちがしてくる。夫が死んで、私もそれなりに心を病んでいるのかもしれない。

私たち夫婦には子供ができなかった。私も夫も子供が好きな方だったが、ついに子宝に恵まれることはなかった。私はそれを残念に感じていたが、夫の夢を見るようになってから、漠然と子供がいなくてよかったのかもしれないと考えるようになった。夢の中の自分は、子を愛すことのできない女だったからである。

私は夫を愛していた。愛する夫との間にできた子も当然愛すことができると信じていた。子を愛せるかどうかは産んでからでないとわからないのだということに、産んでから気づいた。子は私とも夫とも違う人間だった。子が人間になるまでには大変な労力と時間とお金がかかった。子には言葉は通じない。子は糞尿や涎を垂れ流す。子の将来は不確定要素が多すぎる。その全てが、私を苦しめた。最も私を追い詰めたのは、愛せるはずの我が子を全く愛しいとおもえない自分自身の歪さであった。しかし、これは夢の話だ。

夢の中の夫はいつも優しい。私を理解し、認め、慰め抱きしめてくれる。夢の中の夫は娘に物理的にも心理的にも触れることがない。夫は忙しく、優しく、ずるい男なのである。そういうところが好きだった。現実に夫は死んだ。これはおばけのようなものだった。自分で作り出したおばけ。私は夢を夢と言い聞かせる。そうでないと何が現実で自分がどこにいるのかわからなくなりそうだった。

娘はいつまでも床で寝ている。現実が揺らぐ。サイレンの音が聞こえて、私は目を閉じる。