5月病な日々

脚色と虚構

信じることを期待する

最近たまに、これだ、とおもうことがある。

かつて報われない恋をしていた頃、私は中学生のままごとのような行為に憧れた。ラインミュージックを揃いの恋愛ソングにするだとか、カップルアプリなるものをインストールするだとか、ペアのネックレスをつけるだとか、ちゅープリを撮ってツイッターに「男絡みいらん卍」と呟くだとか。

彼氏とコインランドリーに行った時、あぁ、これだ、とおもった。私はあまりに報われなさすぎて、自分が本当は何が欲しいのかわからなくなっていたのだと気づいた。私が憧れていたのは、コインランドリーで好きな人と洗濯物が乾くのを待つようなことだった。誰にも逃げも隠れもせず、この人が好きだと言えるような関係になることだった。それを当たり前にできるようになることだった。

私は他人を信用するということが極端に苦手である。対して、諦めることはすごく得意だ。私にとって信用するというのはすごく負担のかかることで、反対に諦めることは拍子抜けするくらい楽だ。昔から嫌になる程度胸がなく、泣き虫で、常に不安でいっぱいの人間だった。自分自身を諦めることで世間の悪意や何か後ろ暗いものから鈍感になった私は、やっと人並みになれた気がした。

決断の早い人は期待することを恐れている、と何かの本で読んだことがある。では、決断することを出来るだけ先延ばしにしがちな自分は、期待しているのだろうか。信用はしていないくせに期待だけしているというのは、酷く自分勝手な姿勢ではないのか。

期待と信頼は姿形はよく似ているが、全くの別物だ。期待は裏切られるものだが、信頼は失うものだ。私は自分が芯からダメなやつだとおもっているから、他人が勝手に何かして、その結果自分に利益があればいいとおもっている。それは期待だ。信頼とは相互作用で生まれ育むものだ。つまるところ、私は自分に対しては期待も信頼もしていないから、誰かに対して自分が片棒を担がなければならない信頼も生まれることはない。

確かに私は期待していたんだろう。今どんなに報われなくても、いつか報われる日が来ると。何度泥水を注がれても、いつか空から飴が降って来ることを期待して、バカみたいに口を開けて上を向いていた。飴なんてちっとも好きではないのに。仮に落ちてきたとして、喉に詰まらせるのがオチだろうに。

いつか、私をいつもハッとさせるこの人のことを信じることはできるのだろうか。自分でも気づかなかった本当に欲していたものをくれるこの人に、私は同じことができるだろうか。

口を閉じて下を向いた時、地面に無数のアリがたかる飴が落ちていたりしなければいいな、とおもう。